生活保護世帯の子どもたち

 

「子どもの貧困」という言葉が「市民権」を得て久しい。

家庭の経済状態やそれに関連する環境の中で、子どもたちが様々な困難に直面したり、制約を受けながら生活をしていることに対する関心は確実に高まってきている。

2013年には「子どもの貧困対策の推進に関する法律」が成立、2014年1月に施行された。また、2014年8月には「子供の貧困対策に関する大綱~全ての子供たちが夢と希望を持って成長していける社会の実現を目指して」が閣議決定され、貧困対策の指針が示されたことは記憶に新しい。

 

しかし、貧困の解消にはほど遠いのが現状だ。

 

たとえば、自治体が行う学習支援のあり方にも大きな差が存在し、半数近くの自治体で実施のめどが立っていない。その理由として、下記のような記述があった。

 実施しない理由(複数回答)として、最も多い65%が「実施できる人や団体が確保できない」と答えた。46%は財源が足りないとし、「場所」や「交通手段」の不足はそれぞれ21%だった。

貧困対策に限らず、自治体の経済力格差は日本の大きな課題だと思う。

 

ただ、このように学習機会を提供すればそれで良いのかというと、それだけでは不十分である、と強い主張もある。

 

林明子(2016)『生活保護世帯の子どものライフストーリー:貧困の世代的再生産』勁草書房

 

この本は、生活保護受給世帯の子どもたちの「語り」から「ライフストーリー」を構成し、彼らがどのように生活し、何を考え、これからどうしたいのかを分析する中で、一定のパターンを見出そうとしたものである。「貧困=お金が無い」という捉え方をするだけにとどまらず、当事者である子ども自身の主体性に重きを置き、「貧困」の世代的再生産のプロセスを解き明かそうとした点に大きな特色がある。

 

全体を読んでみて、興味深かった点について簡単にまとめておきたい。

  1. 被保護世帯の中学生は、中3になるまで高校進学を意識していない。
  2. 一般世帯の中学生は成績と自己肯定感のあいだに正の相関が見られた(成績が良いほど自己肯定感も高いという関係が見られた)が、被保護世帯の中学生は成績が良くなくても自己肯定感が高い場合がある。
  3. 学校生活で周辺的な位置に置かれる被保護世帯の中学生は、家庭生活における家事役割にひきつけられている。それは、自己肯定感の源泉でもある。
  4. 家庭生活の維持に努める生活が、彼らを低学力・低学歴へと至らしめる。

次の一文が、まとめにあたるかもしれない。

彼らは単に経済的に困難であるから学力が低いのではなく、懸命に家庭生活を維持しようとする中で自己肯定感をも獲得し、学校生活の中心となる学習や諸活動から撤退していくのである。そうした積み重ねの末に高校入試時期は訪れる。(p.194)

では、どうすれば貧困の再生産は食い止められるのか。

同書が出した政策的提言は、以下の4つであった。

  1. 家庭生活全体への支援
  2. 第三者による居場所支援
  3. 経済的支援
  4. 学校での取り組み

詳しくは本文に譲りたいが、「子ども期を子どもとして生きる」ことをどこまでサポートすることができるのか、を考えていかなければならないだろう。ただ、安易に「子どもスタンダード」なるものを導入し、そこにすべてをあてはめていくようなことは避けなければならないとも思う。

 

貴重なデータを用いて、とても丁寧に書かれた文章だと思うが、一点、大きく心に引っかかることがあった。

 

家庭が「しんどい」「大変な」状況にある子どもについて、学校の先生は次のような語りをすることが多い。

「家に居場所がないから、荒れてる。」

「家が不安定だから、学校でも落ち着かない。」

多くは、学校内外で示す非行的なふるまいや、彼らの「不安定な」言動を指して語られるものである。私も、そうした説明をある程度納得して受け止めてきた。

しかし、本書の主張はまったく逆だ。

家が居場所になりすぎることと、学校から遠ざかったり不安定になることは一体となって語られていたのである。これは、私にとっては大きな気づきであるとともに、大きな違和感でもあった。

先述の教師たちの語りは「学校」というレンズを通して見たゆえのものなのか。それとも、本書が調査対象とした「学習会に参加している生徒」は、被保護世帯の中学生のごくごく一部であり、さらに多くのバリエーションをとらえなければならないことを示しているのか。

 

いずれにせよ、この問題についてさらなる理解が必要だと思うし、子どもの貧困問題のみにかかわらず、もっと子育てをしやすい社会、そして、格差の小さい社会を目指していかねばならないと、改めて思った。